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1月17日・あの日から15年

阪神・淡路大震災から15年経過しました。

私は当時、中学3年生でした。 私は、海外から日本に戻り楽しく神戸で過ごしていました。
久しぶりの日本も慣れだしていた、三ヶ月後の1月。

16日 いつものように私は学校から帰宅し、習い事に行きました。 いつもと何も変わりませんでした。

習い事が終わり この日は習い事のお友達K君とK君のお母様・そして私と私の母。 母同士が同級生ということで
家族ぐるみのお付き合いをしていました。

楽しく4人で食事を終え 「また、明日ね」「明日も●●(習い事)頑張ろうね」といつものように笑顔で「バイバイ」と言いました。 あんな恐ろしい事がおこるとは何も知らずに・・・・。

私は海外から越してきたこともあり、高校への進学手続きなどの関係もあり、忙しくしていました。ピアノがしたいという思いもあり 遅くまで防音室に篭りピアノ練習をしいました。
それとあわせて 海外から帰国してからはずかしながら私は日本語が苦手でした。なので日本語の勉強をしていました。 眠りについたのは 朝の4時頃でした。

私は こんな事を思いながら眠りにつきました。「明日もK君とあえる。習い事も頑張ろう」と・・・・・・・。


そして、恐怖の朝がやってきた。


私は、この日に限ってリビングでお手伝いのSさんと一緒に寝ました。  すごい音がしました。 目が覚めました。

私の身体の上には重い家具がのっていました。痛さは感じなかった。ただただ、息苦しかった。
何が起きたか わかっていない私はピアノ演奏家にとって大事なもの「手」を必死にかばっていた。

容赦なく私とお手伝いさんの上には家具が落ちてくる。苦しかったです。
お手いさんのSさんが必死に私を守ってくれる。  私の数倍苦しかっただろう。

最初「大丈夫。頑張ろう」と言ってくれてたSさん。



私の家では、朝5時には火をつかっていた、毎朝。  火事だ・・・・。

目の前が炎。


父が血を流し 足を引きずりながら 生き埋めになっている私を救助してくれました。



お手伝いSさんは この時点で 息 していませんでした。


どうしたかなんて憶えていない。必死でSさんを外に出した。



母と妹の無事がわかり そこは安心したのを憶えている。


そんな安心は一瞬。  私のすぐ隣でSさんは亡くなった。 私がこの日居なければ Sさんは亡くなる事
はなかったと思う。

家の中にはまだ数名の親族・お手伝いさんが居ました。


限界でした。



私は当時 ショックで 喋れなくなりました。数ヶ月。 大怪我もあり入院。
喋れなかった。 そして 防衛本能? 震災のことが 頭からぬけた。
今思うと受け入れられなかったのだろう。



K君・K君家族が亡くなったと知ったのは 数ヶ月経過してからの事でした。




酷く自分を責めました。 




私は 生きています。  



Sさんから守ってもらった命。 父が助けてくてた命。




Sさんは、年齢が近くお姉さんのように慕っていました。 必死に守ってくれました。



自分のすぐ隣や自分の目の前で 人が亡くなる。
教科書でしかみた事のない 戦場のようだった。



震災を受け入れられるようになるのに 私はずいぶん 時間がかかりました。

今でも 辛いです。  思い出します。



でも 私は 生きています。   




この事は絶対に忘れてはいけない。   次の世代にも伝えないといけない。




私は、 生きているのだから。




Sさん・K君・K君家族・親族・そして被害にあった友人など総ての人に感謝し、恥じないように。



生きていると 時が経過し 進む道がある。




恥じないように 生きたい。



この日の事を忘れずに。



私は 兵庫県 が大好きだ。  この街が好き。



生きます。



2010年 1月17日 Y                                 

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2010/01/17 22:30 | ひとりごと  TOP

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